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コメント欄でのエスさんとの会話の中で、S性のオーラはどのように発せられるのか、ということがありました。

「それはひっそりと発せられる」というのがエスさんと私との共通認識でした。
(というまとめ方でよろしいでしょうか?)

私のファンタジーでは女性=S、男性=Mで固定しているので、以下その前提で話させていただきますが、私のMセンサーは、ひっそりと発せられないS性を即座に「ニセモノ」と判定してしまうことになります。

例えば沢尻エリカさんが、いかに女王様ファッションを身にまとおうと、私は何も感じないのです。
沢尻さんを憧憬するマゾヒスト諸兄が少なからずいることは承知していますので、申し訳ないのですが。

女王様キャラの芸人・にしおかすみこさんが出てきたときも、反応したマゾヒストがいたようです。
私はすぐに、にしおかさんが気の優しい、どちらかというとMの女性だと見抜いてしまったので、マゾヒストとして発情することはありませんでした。

もう一人、全く別のジャンルで松井冬子さんという方がいます。日本画家です。
何年ぐらい前になるのでしょうか、日本画特有の繊細な線で“内臓をむき出した亡骸”のような一見残酷な題材を描いて、華々しくデビューしました。
松井さんにはその画風とは別に、もう一つついて回るイメージがあります。
それはたぐい希な美貌ということです。

楚々とした美貌ではなく、それとは対極の、大輪の花のような派手な美貌です。
端的に言えば、女王様然とした美貌なのです。

はっきり言って、私はこういうタイプに(も)弱い(^_^;)。
沼正三のドミナ類型でいえば、ミネルヴァ・タイプ(高い身体的・知的能力)の女性です(「ドミナの三類型」参照)。
私のMセンサーは反応しかかりました。

しかし、たまたま目に入ったNHKのドキュメンタリーを見て、私の印象は変わりました。
松井さんは、心の中に強烈なコンプレックス(執着)を抱えている女性でした。
彼女は、容貌とは裏腹に、“傷つきやすい小さな女の子”そのものだと察せられました。

番組でそのあたりをどこまで取り上げていたのかももう忘れましたが、ネットで検索してみると、松井さんはDVを受けていたらしいとか、幼少期に何かあったんじゃないかなどと書かれていました。
もっとも実際のところどうなのかというのは私にはわかりません。
ドキュメンタリーでもそれらしいことを示唆するほどの場面はあったのではないかと思います。

松井さんが残酷な題材を描くのは、彼女自身の“痛み”を表現しようとしているからでした。
彼女のまなざしは、どちらかといえば加害者ではなく被害者のそれなのです。

私は、松井さんの“完璧な美貌”も、実は同じコンプレックスから来ているのではないかと思いました。
彼女は自分の容貌に強いコンプレックスを抱えている(あるいはDVの原因に彼女の容貌が関係しているのかも)。
だから、つねに“ある程度”のメイクをした上でないと人前に出られないのではないかと。
ところが、もともとの顔立ちもあるのでしょう、本人にとっては“ある程度”のメイクでも、他人から見ると「そこまでやらなくても」と感じるほどの“完璧な”メイクに見えてしまうのです。

私が番組を見たのはもう何年も前のことで、その後松井さんは幸せな結婚をされたようです。
きっと彼女を包み込むような男性が現れたのでしょう。
ですから、もしかすると今はもう“傷つきやすい小さな女の子”の顔はしていないかもしれません。
だとしたらそれは大変結構なことです。

いずれにしても、松井冬子さんは私のドミナ曼陀羅に入りかかって、すぐに姿を消しました。
一人のアーティストとして興味を持っていることは、今も同じです。

松井さん本人の写真や作品の画像は以下でどうぞ。
「松井冬子」でグーグル検索
いつの間にか「ドS」「ドM」という言葉が巷に氾濫するようになりましたね。
これを「SMが市民権を得てきた証拠である」と考える人もいるようです。

だが、本当にそうでしょうか?

私にはそうは思えません。

たしかに「S」とか「M」といわれる人たちが存在する、ということが人口に膾炙してきた、とは言えると思います。

いや、こういう言い方は正確ではないですね。
より正確にいうなら、SやMについて語ることがタブーではなくなってきた、ということでしょう。
SやMの存在自体は以前から多くの人に知られていたはずですから。

ひと昔、いやふた昔ぐらい前かな、「デブ専」という言葉は、ゲイの人たちだけが使う極めて特殊な用語でした。
それが今は、高校生でも使うようになりました。
そのことと平行する現象でしょう。

たしかにSやMの存在がタブーでなくなったこと自体は、良いことではあるでしょう。
しかしその反面、「ドS」」「ドM」の氾濫によって、その本質がかえって見えにくくなってきているというか、もう少し強い言葉でいうなら、隠蔽されているような気がするのです。

一般人が語る「S」や「M」あるいは「ドS」」「ドM」という言葉は、非常に表面的で薄っぺらく使われているんですね。
「常識」・・・なんてものが本当にあるのか、という議論もありますが、とりあえずそれは置いといて・・・「常識」という水面に浮かび上がってきた部分だけをとらえて、S、M、ドS、ドMと呼んでいるのです。

サド、サディズム、サディスト、マゾ、マゾヒズム、マゾヒストと呼ばずに、常にS、Mという記号で呼んでいることが、一つの証拠ではないでしょうか。
サディズム、マゾヒズムと呼んでしまうと、水面下にあるもの、すなわち「常識」の範疇に収まりきれないものをつい引っぱり出してしまうんですね。
平たく言うと、世間話という範疇ではどぎつく感じるんです。

「ド」のついた「ドS」「ドM」という言い方にも、からくりがあるように思います。
「ド」というのは本来、関西方言で、強調の意の接頭語です。
「ドあほ」「ド根性」などの「ド」ですね。

しかし、「ドS」「ドM」の場合、「ド」がつくことで逆に意味が希薄になっていく、あるいは拡散していっているように思われます。
強調の接頭語が逆に意味を弱くしている。

「彼女はサディスト(サディスティン)だ」
「彼女はドSだ」

どちらがより強く響くか、言うまでもないですね。

これは、そこで語られている「S」「M」という語の内実が、既に常識によって骨抜きにされたものになっているからですね。
骨抜きになった言葉をいくら強調しても、全体として強調されることはないのです。

OLや女子高生が井戸端会議で、
「彼女すごいドSなのよ」
などと言ったとしても、その彼女が、男を奴隷にしてその絶対的支配者として君臨している・・・などとは思わないわけです。

私たちマゾヒストは本能的に「私ってドSなの」などという言葉に惹かれてしまいがちですが(^_^;)、くれぐれもこういう言葉に惑わされてはいけません。

むしろ本当の支配的マインドをもった女性は、「ドS」などという言葉とは無縁のところにひっそりと存在しているのだと思います。


こう見えても
「私ってドSなのよ」
「ち、ちっとも知りませんでした!」

キーボードの前に座った。何か書こう。

これを書いてから、いただいたコメントにレスを返そう。

写真を探すのはその後にしよう。

話題は何にしようか…。

そうだ、テレビなどでときどきDV(家庭内暴力)が話題になることがありますね。

事件になるようなケースはともかくとして、その手前ギリギリのケース。
多くの場合被害者は女性です。
身の上相談のような番組に女性が出演し、被害を訴えたりします。
相談を受ける側のタレントたちは口々に「別れた方がいい」と言います。
だが、女性は何度もひどい目に合わされながら、なぜか別れようとはしないんです。

そういう女性が最後に言う科白はだいたい次のようなものです。

「私がいないとこの人はダメになってしまう」

一人のDV男と別れても、次に一緒になった男がまた同じようなタイプだったりするわけです。

なぜなのでしょうか?

単に男運が悪い、ということでは片づけられないように思います。

答えはみんな薄々気づいているはずでしょう。
彼女の心の中心にあるのはマゾヒズムなのです。

彼女が男の暴力に悩み苦しんでいることが嘘だと言っているのではありません。
それも正真正銘、本当のことでしょう。
しかしその一方で、暴力を心のどこかでそれを快いと思っているのです。
たとえ本人の意識は気づいていなくても、無意識がそう感じているのに違いありません。
いわば彼女は矛盾する二つの感情に引き裂かれているのです。

「私がいないとこの人はダメになってしまう」というのは、後からつけた理屈に過ぎません。

なぜそんなことがわかるかというと、同じようなメンタリティが私の心の中にもあるからです。
どうしようもなく暴力的な女性、横暴な女性に捕まって、ひどい目に合わされながら地獄のような生活を送ってみたい、という願望が。

私の場合は、妄想に過ぎないからただ甘美なだけですが、実際にDV被害にあっている人にとっては深刻な問題です。
そういう人に私から言えることは、自身の内にあるマゾヒズムを見つめるところから始めないと、おそらく根本的な解決にはならないだろう、ということです。
具体的には、DV男とはさっさと別れて、内なるマゾヒズムを解消する別の道を模索するのがよいと思います。

暴力的な女性は美しい

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