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 純子はいらいらしていた。
(まったくこんな日に限ってなぜ……)
 予定では正之は十時に来るはずだった。それがもう十一時半だ。もちろん遅れるというメールは届いていた。だが、だからといって今日の遅刻が許せるわけではない。
(今日はいつもと違うんだから)
 正之にとって今日は特別な日だったが、それは純子にとっても同じだった。
(今日は特別の日。だって正之を調教する最後の日なんだから)
 純子にとって正之は、十年間調教しつづけた奴隷であった。
 十年も同じ男を奴隷として飼いつづけたことは、今までになかった。もしかすると、これからもないかもしれない。しかもその十年のうち、ほんの一時期ほかの奴隷を飼ったことはあるものの、ほとんどの期間は正之を唯一の奴隷としていたのだ。いわばほぼ完全に一対一の主従関係を続けてきたのである。これは自分でも信じられないことだった。
 いうまでもないことだが、正之がその間、自分以外の女に二重に仕えたということはあり得ない。一般でいう浮気というやつだ。
(浮気なんてあり得ない。それは正之の態度を見ていれば一目瞭然だわ。それに精神的にも、時間的にも、アイツにそんな余裕なんてなかったはずだもの)
 メールの着信が鳴った。「あと十分で着きます」。
 正之と初めて会ったとき、純子は二十九歳だった。正之は六つ下の二十三歳。あたりまえだが、今は二人とも十歳ずつ年を重ねている。
(あのとき正之は、まだ初々しい新人サラリーマンだった。明るくて、さわやかで、若さが輝いていたわ)
 純子はグラフィックデザイナーとして正之の会社の広告や広報誌を担当していた。そこで二人は知り合った。
 あるとき、仕事を終えてからみんなでワイワイとやった。やがて二人で飲みに行くようになり、そして、なるようになった。
 はじめは純子がリードしていたものの、ノーマルな男女関係だった。それが半年後には主従関係に変わっていた。きっかけは特になかった。自然にそうなっていったのだ。
(タイムリミットは明日の夜、七時半か。こうしている間にも、時間はどんどん減ってしまうわ)
 十分の時間が純子にはとても長く感じられた。

 純子と正之の関係は、主人と奴隷だ。主人は何をしても自由であり、奴隷は所有物の一つに過ぎない。だから、正之のほかに何匹奴隷をもとうと自由なのだが、実際には正之を唯一の奴隷にしていた。それには、やはり理由があった。
 といっても複雑な話ではない。要するに気に入っていたのだ。
 正之にはほかの奴隷にはない魅力があった。それは、一途さと一生懸命さだった。
 命令されたことは、とにかく全力で果たそうとする。その一途な真剣さに、純子は惹かれていた。いや、もっとはっきりいえば、女心を鷲掴みにされていたのだ。
 命令はうまく果たせるときもあれば、そうでないときもある。うまく果たせないときは、当然のことながら叱る。厳しい罰を与える。その罰にも、正之は真剣に立ち向かおうとする。けっして逃げようとしないのだ。
 どんな理由だったかすっかり忘れてしまったが、たぶん些細なことだったと思う。罰として一本鞭を連打したことがあった。
 純子はいつも鞭を力いっぱい打つ。優しく打ったのでは鞭の意味がない、と彼女は思っているからだ。
 一度打ったところに、重ねるように同じ場所に打つ。傷口を鞭打つわけだから、痛みは打つたびに倍になる。
 いったい何発打ったのかわからないぐらい打った。皮膚は裂け、全身に血がにじんだ。それでも容赦しなかった。
 ものすごくつらい思いに耐えていることが、純子には手にとるようにわかる。それでも打った。おそらく気絶する寸前だったろう。ようやく気が済んで打つのをやめた。
 正之が極限まで張りつめていた気持ちを、ふっと弛めたのがわかった。そうして気持ちが解放されて、ようやく目の奥から涙が溢れてきたらしい。
 純子は、瀕死の正之を風呂場に入れ、土下座させた。そして、「薬をつけてあげるわ」と、傷口に小便を浴びせたのだった。
(私ってなんてひどいことをする女なのかしら)
 と思ったが、全身に小便を浴びた正之は、涙を浮かべた目で純子を見上げてこう言ったのだった。
「……あ、ありがとうございます……や、やさしい純子様……」
(なんてバカな男なの。この目だわ。純粋で、混じり気のない目。もっともっといじめたくなる目。この目で見られると、胸がキュンと締めつけられてしまうじゃないの)
 もちろん自分が正之に惹かれていることは、表面には少しも出さなかった。
 そんなことは支配者としてのプライドが許さない。それに、それが正之に知られたら、正之は慢心してしまう。
(慢心した奴隷なんて奴隷じゃないわ。そうなったら捨てるしかないもの)

 二人が主従関係を結んだとき、一つだけ約束したことがあった。
 それは、どちらかが結婚したり転勤したりして、会えなくなったときは、きれいに関係を解消すること。気持ちよく相手を祝福して、一切後に引きずらないこと。
(忘れもしない、あれは初めて正之を「奴隷」と呼んだ日のことだったわ)
「それじゃあ、本当に私の奴隷になるのね」
「はい。純子さんの奴隷にしていただきたいのです」
「女の奴隷になるということがどういうことか、わかってるの?」
「………」
「遊びじゃないのよ」
「はい、遊びじゃありません」
「奴隷になったら、お前が何をしたいかなんて関係なくなるの」
「はい」
「お前自身の欲望をすべて捨てられる?」
「はい、捨てます」
「お前の苦しむ姿が見たいって言ったら?」
「喜んで苦しみます。どんな苦しみでも受け入れます」
「お前は欲望を捨てて苦しむだけ。それでお前には何の得があるの?」
「私の苦しみを見て純子様が少しでも楽しんでくださったら、それが私の歓びです」
「今ならまだ引き返せるわよ」
「引き返しません」
「本気ね」
「本気です」
 純子は少し考えた。正之は迷いのない目をしていた。その後も純子の心を捉えてはなさない、あの目だった。
(このまま突っ走っていくこともできる。だけど、少しだけ冷静さを取り戻しておいたほうがいいと思う)
 そう考えて、純子はこう言った。
「わかったわ。今日からお前は私の奴隷よ」
「あ、ありがとうございます!」
「待って。その前に一つ約束しましょう。椅子に座って」
 純子は床に這いつくばっている正之を、自分と同じ高さの椅子に座らせた。
「奴隷になる前のあなたと、大事な約束をしたいの」
「はい」
「それはね、私たちのこの関係はあくまでも“裏”の関係だということ。“表”の生活には影響を与えないことが大事だと思うの」
「はい、わかります」
「だから、表でこの関係が続けられなくなるようなことが起きたら……たとえば結婚するとか、転勤になるとかね、そういうことになったら、きれいさっぱり別れること。どう?」
「……結婚、ということは、結婚相手を見つけるのは自由……ということですか?」
「そういうことね。あなたに素敵なフィアンセが見つかったら、気持ちよく祝福してきれいに別れてあげる。逆に、私が誰かと結婚することになったら、引きずらずにさっぱりと別れること」
 正之に異存はなかった。
「はい、わかりました。約束します」
「いい子ね。これは私たちのあいだの憲法よ。けっして忘れないこと。そして、何があっても厳守すること。私もきちんと守るわ」
「はい、誓います」
「それじゃあ、あなたに最後のキスをしてあげる。キスが終わった瞬間から、もうあなたは人間じゃなくなるの。奴隷になるのよ」
「は、はい」
「いい? 人間に別れを告げる覚悟はできた?」
「……は、はい。できました」
 正之は目をつぶった。
 純子は正之の首を両手にとって、そっと顔を近づけた。
 正之の鼻と口に、やさしく息を吹きかけた。
 純子の息を、正之はうっとりと吸い込んだ。
 唇が触れる。
 触れたまま感触を楽しむ。
 そのまま押しつけた。
 正之はされるがままになっている。
 舌は差し入れなかった。そのかわり唾液を注ぎ込んだ。
 正之はもう忘我の境地に入っている。
(ふふふ。まるで天国にいるような顔をしているわ。たっぷりと楽しみなさい。これから地獄を味わうんだから)
 どのぐらいの時間が経ったのか、純子にもわからなかった。
 純子は唇を離した。そして、まだうっとりと目をつぶっている正之の頬を、力まかせに張った。
 バシンッ!
 あわてて正之は床に這いつくばった。
 こうして二人の新しい関係が始まったのだった。

 ドアホーンが鳴った。
(やっと来たわ)
 最後の祭りが、これから始まるのだ。

(つづく)
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「はあ、はあ、はあ」
 自分の一歩一歩がもどかしいったらなかった。
 正之は、Y駅から十分ほどのところにあるマンションに向かっていた。早足というよりも小走りに近い。この十分が長い長い時間に感じる。
(早く、早く会いたい。早く……)
 午前十一時半。もう額は汗まみれだ。背中をしたたり落ちるのがわかる。だがそんなことに構ってはいられない。
 向かっているのは、愛する人のマンションである。
 とにかく今日は少しでも早く彼女のもとへ行って、一秒でも長くそばにいたい。そのことばかり考えていた。
(この信号をわたって、二つ目の道を左へ曲がる。遊歩道を道なりに進んで、コンビニのある角を右折して五十メートル行った右側)
 すっかり覚えてしまった道順を頭の中で繰り返しながら、現実には想像通りにさっさと進まないのにいらいらした。
 正之は昨夜のことを考えた。
(昨日は大変だった。やっぱり荷物をまとめるのに一日では終わらなかったな)
 昨日じゅうにまとめて、今朝一番に引越業者に来てもらい、早々に大阪に送ることになっていたのが、荷物をまとめるのに時間がかかり、二時間ばかり遅れたのだ。だから夕べは徹夜だった。業者を送り出したまま、一睡もせず正之は家を出た。だが少しも眠くならない。今日は一秒一秒が貴重なのだ。
(まだ遊歩道か。マンションに着く、入口にある部屋のボタンを押して、ロックを解除してもらい、通路を一回右に曲がり、エレベーターのボタンを押し、到着するのを待つ……。待つ時間を想像しただけでいらいらする。こうした手続きを順にこなさなければ愛する人には会えないのだ。ああ、もどかしい)
 「愛する人」と頭の中では考えたが、それを口に出したら恐ろしいことになるのだ。そう考えて正之は、思わずひとり笑ってしまった。
 そのとき、すれ違ったおばさんと目があって、あわてて笑みを押し殺した。
(見られたかな。まあ、いいや。何のことだかわからないだろうから)
 付き合いだして一年ほどのころだったか、純子とこんな会話を交わしたことがあるのを正之は思いだしていた。
 どういう会話の流れだったか忘れたが、純子が突然「何か言いたいことがあるか?」と訊いてきたのだ。後になって、ただ単に正之がなにか言いたそうに見えたからだということが判明したが、そのときはなぜそんなことを尋ねるのかわからなかった。

「私に何か言いたいことある?」
(なんで急にそんなことを訊くのだろう? 何か言わせたい言葉があるのだろうか?)
「いえ、特にありません」
「何でもいいから言ってごらん」
(な、なにか言わなければならない。なんと言えばいいだろう……)
 わからないまま正之は口を開いた。すると勝手にこんな言葉がこぼれ出た。
「愛しています」
 いきなりビシッと頬を張られた。
「す、すみません」
「なぜぶたれたかわかる?」
「い、いえ……わかりません」
「ばかね。じゃあ一度だけ、教えてあげる。『愛してる』っていう言葉は、恋人とか夫婦とか対等の人間同士の言葉なのよ。お前は私と対等なの?」
「いえ違います。も、申しわ…」
「奴隷から愛してるなんて言われたら、まるで私まで奴隷になったみたいじゃないの!」
 そういって純子はまた強烈なビンタを下さった。
 ビシッ、ビシッ、ビシッ、ビシッ!
「申し訳ありませんでした! 私が間違っていました! お許しください! ごご、ご指導ありがとうございます!」
 泣きながら必死で謝った。
「それじゃ、もう一度聞くわ。私に言いたいことあるの?」
 過度に優しい言い方に、正之は震えあがった。
「は、はい」
「言いなさいっ!」
(何と言えばいいんだろう。つぎに言葉を間違えたら殺されてしまうかもしれない)
 もちろん実際にはそんなことはしないだろうし、冷静になって考えてみれば正之もわかっているのだが、目の前で発せられる純子のひとことひとことは、正之にそう思わせるだけの力をもっていた。
(少なくとも半殺しのような罰は受けるだろう…)
 恐怖にとらわれて言葉が思い浮かばない。でも、純子を待たせるわけにはいかなかった。
「……あの、えーと、お、お慕いしています」
 震える声でなんとかそれだけ言った。
 純子は無表情であった。
 恐かった。
 純子の目はまっすぐに正之を見おろしていた。その視線に貫かれると正之は、身動きひとつできなくなってしまう。
 自分の運命の全てが、目の前の女性に委ねられているという恐怖。
 しかし、そうして見上げる純子の顔は本当に美しかった。
 究極の美は恐怖とともにある。正之はそのとき、そう確信した。
 ただ、そう思っても恐怖が取り除かれるわけではない。
 時間が凍てつく。
 どのぐらいの時間が経ったのかわからない。現実にはほんの短い時間なのかもしれない。もう限界だ、と思った瞬間、純子の口が開いた。
「そう、それでいいのよ」
 一瞬意味がわからなかった。
(え、なに? それでいい? それでいい……ということは、ゆる、許されたのか……た、助かったあ)
 恐怖から解き放たれて、正之の目には自然に涙があふれた。
「バカ。泣いてるの? 本当にお前はバカねえ。いま言ったこと、忘れないようにしなさい」
 なんとも優しい笑顔だった。
「はい。ご、ご指導ありがとうございました!」

 それから正之は「愛してる」という言葉を使わなくなった。だが、それは表面だけのことだった。心の中ではいつも「純子様、愛してます」と唱えていた。内心少しだけ冷や冷やしながら。
(だって本当に愛しているのだから。ぼくの純子様に対する気持ちは、けっしてほかの言葉では言い表すことができない)
 ようやく純子のマンションが近づいてきた。

(つづく)
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