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マゾヒズムって、武士道に似てますね。
もっとも武士道は、封建制度下でいかに主君に仕えるかという教えですから、崇拝するご主人様にいかに仕えるかを考えるマゾヒズムとは、似ていてもちっとも不思議ではありません。

新渡戸稲造『武士道』のなかにこんなくだりがありました。

>臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途は(略)あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、主君をして欲するがままに我を処置せしめよ。(略)自己の血を濺(そそ)いで言の誠実を表わし、これによって主君の明智と良心に対し最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった。

つまり、手討ちにされる、あるいは切腹を命じられることを覚悟で諫言せよ、ということです。
なるほどと思いました。

私は以前にこのブログで、ご主人様から理不尽な命令が下されたら奴隷としてどうするか、ということについて書いたことがあります。
自分でどんな答えを書いたか忘れてしまったのですが、いま読み返してみたら、かなり近いことを書いていたので、ちょっと安心しました。

「究極の命令(回答編1)」

奴隷は心に武士の魂をもって崇拝する女性にお仕えしたいものです。


  「ゴミムシ、お前なにやってるの?」
  「はい、久しぶりにブログを更新していました」
  「何を書いたの? 見せな!」
  「あ、いえ、はい、その…」
  「ずいぶん偉そうねえ」
  「す、すみません」
  「ふうん、お前武士なんだ。サムライなんだ」
  「いえ、その」
  「お前がそんな立派な男だなんて知らなかったわ」
  「ご、ご勘弁ください」
  「毎日泣きながら便器の底のおしっこをすすってるサムライね」
  「……」
  「簡単なことができなくて一本鞭でお仕置きされてるサムライ」
  「……(泣)」
  「捨てないでくださいって、泣いて足下にすがりつくサムライ」
  「…もう、もうご勘弁ください〜」
  「あははは」
  「ご主人さま〜」
  「サムライ、トイレの用意!
   食べ残したら切腹よ!」
  「は、はい!」
最後はKさんの場合です。

Kさん:拷問や四肢切断、内臓取り出しに対して強い執着を持っている。

悩みを相談された kazowk さんが当惑しているのと同じように、私も当惑しています。

Kさんは深く苦悩する一方で、実現したいという強い欲求ももっています。
かなり強い葛藤の中にあることが見て取れます。

kazowk はKさんから「病気ですよね?」と言われて、穏やかに回答を回避しています。
私は、願望を実現したいという欲求が押さえきれなくなりそうなほど強いのであれば、敢えて「病気である」と認識するところから出発する方がよいのではないかと思います。

前に触れた松井冬子さんの作品をKさんが見たらどう感じるだろうかと、ふと思いました。
松井さんも内臓が飛び出した題材の絵を描いています。

松井さんの作品は、自身の“痛み”の投影でした。
Kさんの場合はどうなのか?
もしかするとKさんが松井さんの絵を見たときに、何か感じるものがあるのではないだろうか…。

全く見当はずれかもしれません。

私は「内臓が見たい」という願望は、境界性への憧憬ではないかと思います。
ここで境界というのは、生死の境界です。
内臓が見える状況は、生死の境界にあることを示しています。
人間は、死に隣接することで、逆説的に生を実感するということがあるのですね。
リストカットなどはその例です。

Kさんは生死の境界を目撃することで、生を実感したいのではないか。
ただ、境界を体現する者が自分ではなく他者であることが、リストカットなどとの違いです。

Kさんの願望を、femdom の範疇で捉えることができるでしょうか?
ポイントは、Kさんのファンタジーの中で、相手としての“人”が不可欠な要素になっているかどうかです。
境界的な状況を、相手と自分とで共有しようという意図があるのかどうか。
もしあるとしたら、ぎりぎりで femdom という範疇に入れてもいいと思います。

ですが、おそらくもっと可能性が高いのは、拷問したい、四肢切断したい、内臓が見たいという願望そのものが目的化しているケースでしょう。
状況を「相手と共有する」という要素が抜け落ちて、ただ「内臓が見たい」ということのみに固執していることが考えられます。
この場合は、Bさんのケースと同様、完全に一方的な願望で、femdom 範疇に入れることはできません。
社会的な危険性もとても大きいと思います。

例えば、何かのきっかけで人の内臓に興味を持ったとします。
普通は「恐い」とか「気持ち悪い」と一過性の興味で終わりますが、ひょんなことからそこに想像力が定着し、展開してしまうことがあります。
「どんな感触なんだろう?」
「どんな匂いなんだろう?」
「内臓が飛び出したらどんな風に苦しむのだろう?」
などという具合に、想像力が自己増殖していくと、やがてそのイメージから逃れられなくなって、「内臓が見たい」という願望が目的化してしまうのです。
広い意味でフェティシズムといってもいいかもしれません。
内臓を見ることが目的なのですから、相手不在、人間不在、かつ、一方的な願望です。

人間の心というのは、一度ある種の隘路(あいろ)に入り込んでしまうと、なかなか抜け出せなくなるものです。

佐川一政さんの「パリ人肉事件」を覚えている人も多いでしょう。
佐川さんの本やインタビューを読むと、あの事件は、彼がそういう心の隘路に入り込んで引き起こされたことがよくわかります。
例えば、「内なる辺境の人々×佐川一政」

ひょんなことから始まった「人の肉を食べたい」という思いが、長い時間彼の中に留まりつづけることによって、自己増殖し、やがては強い執着となっていきました。
私ははじめ、女性に対する強い一体化願望(つまり愛)が引き起こしたのではないかと考えていたのですが、そうではなく、もともと「人の肉を食べたい」という強い執着があったのですね。
女性とのいきさつは、一つのきっかけだったに過ぎないようです。
「いつか実行しなければならない」という思いに取り憑かれていた彼は、あるとき「今でしょ」と思ってしまったんですね。

Kさんの場合も、一種の心の隘路に入り込んでしまっているように思われます。
その悩みがとても深いことは想像するに余りありますが、ここはやはり、一人で抱え込まずに、専門医なりカウンセラーなりに相談するのがよいと思います。
相談することで悩みを共有してもらうことができます。
即解決にはならないかもしれませんが、心の負担はかなり減りますし、少なくとも最終的な引き金の抑制にはなるでしょう。

慎重に代償行為を探すということも考えられるでしょうか…。
うーん。
犬や猫を代わりにするのはNGです。
動物愛護団体に糾弾されるから、というだけでなく、どうも小動物への代償行為は、本体である人への願望を昂進させてしまうようです。
だからこれは危険です。

代償行為として私の脳裏に唯一思い浮かぶのは、かなり大胆な意見ですが、医師になること、です。
そこには医療という厳然たる国家制度がありますから、その枠内にきちんと収まりつつ、外科医や内科の執刀医として活動するわけです。
そんな医師に手術されるのは恐い?
いいえ、そんなことはありません。
そういう人の方が名執刀医になる可能性が高いと思います。

でもまあ、誰でもが簡単に医師になれるわけではありませんので、一般的な解決法にはなりませんね。

以上縷々述べてきましたが、いうまでもなく私はその筋の専門家でもなんでもありません。
ただ、マゾヒストとしての勝手な感想を述べたに過ぎません。
例えば「ほんとに外科医になっちゃったけど、どうしてくれるのよ」と言われても、責任とれませんので、どうぞ自己責任でお読みいただければ幸いです。
少しでも考えるヒントになれば嬉しい、というぐらいのものです。
私自身も迷いながら綴りましたので、間違っていることもたくさんあると思います。
ご批判・ご叱正は素直に聞く耳を持っていますので、お気づきの点はご指摘ください。

次はBさんの場合。

Bさん:幼少期から、男は汚いものとの固定観念があり、徹底的に汚したいという願望を持っている。

Bさんのケースと、それからKさんのケースも、私はマゾヒストとして共感することができないので、想像力を働かせて何かを言うことができません。

ただ、Bさんの願望は、femdom(女性支配)ということとは全く違うものでしょうね。
(サディズムという言葉は、文脈によってかなり広い範囲のことを指すので、混乱の元になりかねません。ですからここは、女性支配という言葉で考えた方がよいと思います。)

ここには「愛する」「一体化する」という要素がありません。
言葉を受けとめる限り、ただ一方的に「汚したい」と思っているだけのようです。

したがって、マゾヒスト諸氏がBさんに近づいていくのは危険だと思います。

逆にいえば、Bさんが自身の願望を満たす可能性は現実問題として極めて小さい。
Bさんの悩みはそれだけ深いとも言えます。

やはりここは、専門医やカウンセラーに相談するなどして、「男は汚れたもの」というコンプレックス(執着)そのものを解消していく方向に歩き出すのがよいのではないでしょうか。

Bさんのコンプレックスがどこから来ているのか、もちろん私にはわかりません。
ことによると幼少期の何らかの体験が原因かも……などと、ちょっと想像力を刺激されますが、それは文学とか漫画(『サイコドクター』!)の話ですね。

強迫神経症の中に不潔恐怖というのがありますが、その一種かなとも思います。
あくまでも素人考えですが。

それで気になるのは、作家で精神科医のなだいなだがエッセイで、不潔恐怖がナチスの残虐な行為を支えていたのではないか、と書いていることです(「きれい好きな殺人者の手」〜『人間、この非人間的なもの』所収 ←この本はお薦めです)。

もちろん不潔恐怖をもった人がすべて殺人者になるわけではありませんが、「他人は汚れている」という認識が、「自分とは違う存在なのだ」→「人間ではない」という具合に連鎖していき、極端な場合にはホロコーストを引き起こす、ということはあり得るのではないかと思います。

Bさんがそうだ、と言っているわけではもちろんありません。
ただ、Bさんの投稿の中に自省的な言葉がないことが、ほんの少し気になります。
もっともマゾサイトへの投稿だったので、偽悪的に書いただけかもしれませんけれど。
さて、Aさんの場合。

Aさん:気に入った男を一生自分の手元に捕らえておきたい。また、その男を「食べたい」という願望を持っている。

私はAさんのケースは、お三方の中で唯一、私たちが言うところの femdom(女性支配)の範疇に入るのではないかと思いました。

Aさんの願望には、「男を支配したい」という中心があります。支配する方法として、手元に捕らえておく、とか、食べる、ということが選ばれているわけです。

実は私の幼少期にも、Aさんの願望と対になるような願望がはっきりとありました。
つまり、好きな女性に捕まって、最後には食べられたいという願望がです。

私の場合、きっかけは「ヘンゼルとグレーテル」だったと思います。
周知のように、お菓子の家に迷い込んだヘンゼルを、魔女が太らせて食べようとする場面があります。
この物語に初めて接したときの異様な興奮を今でも覚えています。
この話をもとに、食べられたいという願望を「ヘンゼル願望」と名づけたい気がします(もうとっくに名前がついてるかな?)。

他方、「食べてしまいたいほど可愛い」という言葉もあるように、「愛する」ことと「食べる」こととは、実は近い関係にあるのではないかと思います。
比喩的な近似性といってもいいかもしれません。

敢えてこういう言い方をしてみましょうか。
「愛する」こととは「一体になりたい」ことにほかなりません。
とするなら、「食べたい/食べられたい」という願望は、“アミノ酸レベル”で一体になりたいという願望であると。
生殖器官ではなく“消化器官”を通しての一体化願望だという言い方もできるでしょうか。
そこにいわゆる倒錯があることは間違いありませんが、基本はあくまでも「一体化願望」であり、一体化願望自体は極めてノーマルな願望です。

私には、Aさんの願望の、さきほどとは違う角度から対になるような、もう一つ別の願望があります。
ご存知のように食糞願望です。
Aさんは愛する人の肉体を食べたいと願っている。
私は愛する人の排泄物を食べたいと願っているわけです。
そこでは、肉体や排泄物は、愛する人の分身として受けとめられています。

このように、私は二つの角度からAさんの願望に共感することができます。
どちらにしても形は違えど一体化願望であることに変わりありません。

それだけに、私はAさんのケースに想像力を働かせることができると思っています。
私の想像によれば、Aさんが自身の願望を自制することは、比較的容易ではないでしょうか。
その意味で社会的な危険性はあまり感じません。
例えば佐川一政氏のような事件に発展する可能性は、あまり無いように思います。

私が一番いいと思うのは、対になるような願望をもったマゾヒストを見つけて、よく話しあった上で、二人でイメージプレイをすることです。

「今日はこれからお前を食べちゃうぞ」
「ああーん、恐い、恐いよ〜。で、でも・・・」
「でも? でもなに?」
「A様に食べられるなら本望です〜」
「そうか、では、食べるぞ。ガブッ(と噛む)」
「あ〜、食べられちゃう〜」

というような(^_^;)。

まあ、男の体に歯形がつくぐらいなら良しとしましょう。

要するに、食べるというイメージを介して一体化願望がある程度満たされればいいのだと思います。

問題は、対になる願望をもったマゾヒストがいるのかどうかですが、これは少なくないと思います。
被監禁願望も、被食願望も、マゾヒストの中に割合よく見られるものだからです。

Aさんがそういうマゾヒストを見つけて、その人と人間として愛し合うことができるならば(実はここが肝腎ですが)、一生の幸福は保証されたようなものです。
ビアズリー「サロメ」
『マゾヒストの喜び』内のコンテンツ「マゾヒストのつぶやき」に、気になっている記事が二つほどあります。

一つは2013年7月29日付の「S女性様からのメッセージ」と題する記事。
そこには二人の「S女性様」からのメッセージが掲載されています。その内容は次のようなものです。

Aさん:気に入った男を一生自分の手元に捕らえておきたい。また、その男を「食べたい」という願望を持っている。

Bさん:幼少期から、男は汚いものとの固定観念があり、徹底的に汚したいという願望を持っている。

もう一つは2013年5月17日付の「Femdom 質問箱 真性Sとサディズム」と題する記事。
ここには上記お二人とはまた違う女性の願望が紹介されています。

Kさん:拷問や四肢切断、内臓取り出しに対して強い執着を持っている。

彼女たちの願望はいずれもショッキングなものです。
これらを読んで私はある種の当惑を覚えました。
これらの願望を、いったいどう考えたらいいのだろう、どう受けとめたらいいのだろう?

私の当惑を、簡単に解きほぐすことはできませんが、とりあえず「このことは確かに言えるのではないか」ということを一つずつ持ち寄ってみたらどうか、と思いました。

そこで、以下箇条書き風に。

(1)まず言えることは、Aさん・Bさん・Kさんのケースをいっしょくたに考えることは乱暴だということです。

お三方をすべて「S女性」というキーワードでくくろうとすると、本質を見失うか、行き詰まるように思います。

とはいえ、共通するところもあります。

(2)お三方それぞれが抱えた悩みは極めて深いということです。

私たちは、彼女たちが抱える深い心の闇を、簡単に切り捨ててしまうのではなく、そこに寄り添っていこうとすることが必要なのではないかと思っています。

なぜかって?

同じ人間だからです。

(3)彼女たちの願望自体を否定することはできません。

それは「事実」として存在するものだから。
マゾヒズムが私の中に厳としてあるのと同じことです。

もちろんこのことは、彼女たちの願望をそのまま全面的に肯定する、あるいは、称揚する、ということではありません。

(4)彼女たちの願望が反社会的であることは認めなければなりません。

このことに目をつぶるわけにはいきません。

ただ、反社会的といっても、例えば私たちのマゾヒズムだっていくぶんか反社会的であることを忘れてはいけません。食糞なんかなおさらです。

その意味で、彼女たちの願望も私たちの願望と地続きのものとして受けとめなければならないと思います。

とはいえ、反社会性の程度が、私たちの願望と比べて著しく高いことも事実です。

(5)法(刑法)の立場からいうと、反社会的願望が心の内側にある限りは何の罪にもならない、しかし、それを実行してしまえば犯罪として罰せられることになります。

これはとても大事なことです。このことは常に意識しないといけない。

けれども、「内側に留めておけばよい」と唱えただけで一件落着となるのであれば、こんな簡単な話はないですね。
そうはならない、というのは、事が人間の心の問題だからです。

私の感想では、総論的に言えるのはこのぐらいで、あとはそれぞれ別個に見ていきたいと思います。
といっても大したことが言えるわけではありませんが。

つづく。

苦痛も悦びも御心のままに
前回、支配的女性のタイプとして、悦びを授受するYタイプと、苦痛を授受するKタイプとがあると述べました。

これに対応する形で、奴隷の側にもYタイプとKタイプとがあることも述べました。ご主人様の命令を、悦びとして受けとめるのがYタイプ、苦痛として受けとめるのがKタイプでした。

そして、奴隷がどちらのタイプになるかは、具体的なご主人様の下で自然と形成されてゆくもので、自分で積極的に選択するような性質のものではない、というのが私の考えです。

さて、実際の主従関係の場を観察してみると、紀子さんも前回のコメントでおっしゃっているように、ご主人様は奴隷に対してご褒美を与えたり罰を与えたりします。つまり、悦びを与えたり苦痛を与えたりするわけです。

してみると、Yタイプ・Kタイプというのは、支配的女性のタイプ、奴隷のタイプであるほかに、個々の命令・服従の性質を表すものでもあるということになります。

もう一度整理しておきます。

 Yタイプの命令・服従
  命令の形式:ご褒美
  授受する物:悦び
  苦痛と悦び:同ステージ、苦痛を悦びに変換

 Kタイプの命令・服従
  命令の形式:罰
  授受する物:苦痛
  苦痛と悦び:異ステージ、苦痛の奥に悦び

これはいわば理念型であり、実際の場面においては、この二つの要素は画然と区別しにくいかもしれません。例えば、ご褒美として命令(例えば食便)が下されたにもかかわらず、奴隷において未だ苦痛を悦びに変換できていない状態というのは、むしろ普通のことかもしれません。

マゾヒズムにおける本質的な矛盾である「苦痛と快楽との共存」については、以前から興味を持っていましたが、この二つの理念型を抽出できたことで、私の中ではかなり整理できたように思います。

すべてあなた次第です
新年おめでとうございます。

昨年は皆さんに大いに盛り上げていただきました。とりわけ紀子さんのご降臨は、このブログを華やかに彩って下さいました。心から御礼申し上げます。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

私の中で昨年からの懸案であった、「ご褒美か罰かはご主人様次第」「ご褒美は悦びをもって、罰は苦痛をもって受けとめるべし」という私のイメージについて、少し説明をしておきたいと思います。

例えば、ご主人様が奴隷にうんこを食べさせる場合、紀子さんのような「崇拝する女性の体から出てくるものをいただくのだから、奴隷としては最高の悦びのはずであり、それはご褒美以外にはあり得ない」というお考えはよくわかります。(悦びを授受する=Yタイプ)

しかし、それとは違うお考えをもった支配的女性も現実にいます。例えば、以前にも書きましたが、私が短い期間お仕えした女性は、「私はお前が苦しむのを見るのが楽しいの」とおっしゃったことがあります。言い換えると「お前を悦ばすようなことはやっても面白くない」ということであり、それは「私がお前に与えるのは罰=苦痛だけ」という考えにつながります。(苦痛を授受する=Kタイプ)

もちろん、Kタイプの女性には愛や優しさがない、ということには全然なりません。大きく見れば、それはその方なりの愛情表現であるのです。「奴隷の悦びを全て奪う」ことが、彼女の悦びであり愛の形なのです。彼女は「私に全ての悦びを奪われてもなお私から離れようとはしない」という奴隷の態度のうちに、支配する悦びを感じています。奴隷もまた、そうした彼女の愛を反転する形での愛を感じています。二人はこのレベルで深く結びついています。これもまた、まぎれもなく愛の一形態にほかなりません。

さて、今は主人を持たない野良マゾヒストである私は、どちらの考えに与したら良いのでしょうか?

答えは無論、どちらでもありません。マゾヒストが事前に、自身の主人としてYタイプかKタイプかを選択できるケースは、まずないからです。まず何らかの出会いがあって、ある女性を崇拝するに至った。どちらのタイプかはそれから後に判明することなのです。

ですから、野良マゾとしての私は、実際にそういうご主人様が現れるまでは、どちらも選ぶことはできないのです。見方を変えると、今の段階では、どちらにも対応できるような形でしか、奴隷観を形作ることはできません。

余談ですが、万が一、どちらかのタイプのご主人様を選べるとしたら、私はたぶん紀子さんのようなYタイプの方を選ぶと思います。Yタイプの女性にお仕えすると、もともと持っていたマゾ的ファンタジーを(結果的に)肯定してくれることになりますし、常に“悦び”をもってお仕えすることになるからです。

慌ててつけ加えますが、Kタイプの女性にお仕えすることの中にも悦びはあります。ただそれは、苦痛の向こうにある悦びなのです。全ての悦びを奪われることによるワンステージ深いところにある悦び。

Yタイプの女性にお仕えする奴隷は、苦痛を悦びに変換しています。食便を例にとるなら、うんこを食べるという苦痛を(女性に対する崇拝心を梃子に)悦びに変換しているわけです。この場合、苦痛と悦びとは同じステージにあることになります。そして、ひとたび変換に成功すれば、残るのは悦びだけです。

これに対して、Kタイプの女性にお仕えする奴隷の場合は、苦痛を苦痛として受けとめつつ、その奥に悦びを感じているのです。この場合、苦痛と悦びは違うステージに存在しています。苦痛のひとつメタレベルに悦びのステージがあることになります。

支配する女性の側でも事情は同じで、Yタイプの女性とKタイプの女性とは、悦びをどのステージに見出すかという違いに由来すると言えるかもしれません。

結論としては、今の私にはお仕えする女性がいないわけですから、態度を決めようがありません。「ご褒美として与えて下さるならばご褒美として、罰として与えてくださるなら苦痛として受けとめる」という以外に言いようがないのです。

一人の女性にお仕えすることになった場合、時によってその方から「罰よ」と言われたり「ご褒美よ」と言われたりすることもあるでしょう。その場合も同じことです。罰だと言われたら罰として(苦痛として)、ご褒美だと言われたらご褒美として(悦びとして)受けとめることになります。なぜなら、ご主人様が全てですから。

ところで、このような私の考えに一つ疑問をお持ちの方がいらっしゃるのではないでしょうか。

「同じことをされて、そんなに簡単に苦痛になったり、悦びになったりするものか。それは単に苦しがったり嬉しがったりして見せているだけではないか?」と。

そうではない、ということを述べるのが、後半のテーマです。

そういうメンタリティというのは、あり得るし、実際にあるのです。つまり、ご褒美だと言われたら、本当に心の底から悦びをもって受け止め、罰だと言われたら、同様に心の底から苦痛として受けとめる、というメンタリティが。

これは、ジョージ・オーウェルの世界的なディストピア小説『一九八四年』で提出されている考えです。「二重思考(ダブルシンク)」と名づけられたこの心理技術は、ひとことで言えばこういうことです。

白を黒だと信じること。同時に、白を黒だと信じたことを忘れること。

『一九八四年』は、独裁的な権力が人々を徹底的に支配管理する社会を、卓抜なリアリティをもって綴った近未来小説で、「二重思考」はそのための技術としてここでは否定的に扱われています。

けれども、自発的な主従関係の中で、奴隷が自らの心の中にこうした心理機構をつくり出すことには、何の問題もないはずです。

実は一般的に権力によって支配される側の心理には、多かれ少なかれ二重思考的な心理が働いているのではないかと私は思います。被支配という状況の中に置かれると、自然とこうしたメンタリティが形作られていくのだと思うのです。

実際私が女性にお仕えしていたとき、ある程度こういう心理状態になりました。ご主人様が黒だとおっしゃれば、かなりの程度それを本当に黒だと思うようになりました。ご主人様の言葉を全く疑うことができなくなり、ご主人様の言葉は全て真実であると思うようになるのです。

例えば、些細なミスをして「捨てる」と言われたとき、客観的にみればそんなことで関係が解消されるはずはないとわかることでも、言葉を額面通りに受けとめる結果、本当に捨てられるのではないかと、心の底から悲しくなり、心配になるのです。

本当は捨てられるはずはないのに捨てられると信じてしまう。同時に、そのように信じたことを忘れてしまう。

つまり、「白を黒だと信じること。同時に、白を黒だと信じたことを忘れること」という心理機構そのものです。一種の催眠ないし自己暗示なのでしょうね。

以前に、ご主人様にお仕えすると感情が豊かになる、感情の起伏が大きくなると書いたことがあったと思います。奴隷になるとご主人様の一言で一喜一憂する、それも喜ぶときには世界中の幸せが自分のものになったかのように喜び、憂えるときには自殺しかねないほど落ち込むのです。いま述べたことでもう明らかなように、このことも二重思考とかかわっているんですね。

このように二重思考は、奴隷のメンタリティには多かれ少なかれあるもので、これにより「ご褒美と言われれば悦びとして、罰と言われれば苦痛として受けとめること」は十分に可能なことだと考えます。そして、こうした心理機構は、崇拝する女性に心からお仕えすることで、自然と形作られていくものだと思います。

   ◇ ◇ ◇

以前の記事で、マゾヒストについてBタイプという言葉を使ったことがあるのを思い出しました。そこで、無用な混同を避けるために、悦びを授受する=Yタイプ、苦痛を授受する=Kタイプと書き直させていただきました。(13.1.6追記)
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