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聖なるかな
「新・感覚的確信〜棗の黄金調教日記〜」には、私にとって珠玉と言えるような言葉が散りばめられています。

例えば棗さん(拙ブログでは敬称を「さん」に統一しています。ご了承ください)がコメント欄にお書きになった次の言葉。

>(棗さんのもとに)来る人たちは、「来るしかない」から来てるの。

一読して以来、私の頭の中にこの「来るしかない」がずっと鳴り響いています。

私たちはマゾヒストであることを「選択」したわけではないんですよね。
どういうわけでか知らないけど、現実としてマゾヒストになってしまった以上、
自分の中のマゾヒズムと何らかの形で折り合いをつけなければなりません。

日常生活の中でマゾヒズムを抑圧し、そのことで苦しんでいるマゾヒストは多いことでしょう。
そして、抑圧が臨界点に達したとき、彼はおそらく女王様と呼ばれる女性のもとに「行くしかない」のです。

彼が「来るしかない」状態で来ていることが、棗さんにはよく見えてらっしゃるようです。
こういう「眼」は素晴らしいし、マゾヒストにとっては大きな癒しにもなります。

とりわけ黄金プレイは、世間からの反発も格段に強いので、「来るしかない」ことの切実さはいっそう強いことでしょう。

そういう「来るしかない」状態で来た人を、棗さんは大きな愛で包んでいるかのようです。

以下は全くの私の想像ですが、
棗さんの大きな愛の源には「逸脱者」としての共感があるのではないでしょうか?

以前に教師をなさっていたとブログに書かれています。
教師の世界はいわゆる「良識」なるものを強く求められる世界です。
内側にある逸脱的な衝動が、外から求められる「良識」の範囲を振り切ってしまったとき、
おそらく棗さんはこの道を歩むことを決意なさったのではないでしょうか。
いや、歩むことを決意したというより、歩まざるを得なくなったのかもしれません。

もしそうだとしたら、
黄金を求めてやってくるマゾヒストが、来るしかなくて来ているのなら、
それを受け容れる棗さんもまた、そこにいるしかなくてそこにいることになります。

そこにいるしかなくてそこにいる者同士の深い共感、そして慈しみ。
それは、哀しく、且つ、感動的ではないでしょうか。

そう見てくると、それが「良識」からはいかに逸脱したものに見えようと、
その本質は、深い憐れみに支えられた、一種の聖なる営みに思えてくるのです。

Sは Sanctus のS、
Mは Miserere のM。
尻に敷かれて
たまたま入手した『奇譚クラブ』昭和42年6月号に、春川ナミオさんのイラストが掲載されていましたので紹介します。

「線の画家」として出発した春川さんは、その後、「面の画家」、というよりもっと正確に言うなら、「テクスチュアの画家」として世界に並ぶ者のない境地を開拓するわけです。

「線の画家」として出発したのは、おそらく単に技術がなかったからであって、かなり早い時期から、あるいは、当初から、テクスチュアを描きたいという欲求を持っていたのではないでしょうか?

この絵を見ると、線の時代からテクスチュアの時代へと踏み出し始めた感じがしますね。

それにしても、「形」に対して実にイイカゲンなところはずっと変わりません(笑)。
この絵でいうと、女性の右の臑と膳の脚の関係が変ですし、男の右手の描き方はとても下手です(^_^;)。
もちろん、だからといってM画家としての名声を傷つけることにはならないと思っています。
拙ブログを一目見れば明らかなように、私も春川さん大好きですし。

同じ本にもう一点掲載されていました。

鞭撻
「鞭撻」とタイトルがついています。
かなり汚れていますが、元の印刷がこうなのです。
なんでこんなに汚いのかわかりません。
元の原稿がトラブルで汚れてしまったのでしょうか・・・。

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