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すべてあなた次第です
新年おめでとうございます。

昨年は皆さんに大いに盛り上げていただきました。とりわけ紀子さんのご降臨は、このブログを華やかに彩って下さいました。心から御礼申し上げます。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

私の中で昨年からの懸案であった、「ご褒美か罰かはご主人様次第」「ご褒美は悦びをもって、罰は苦痛をもって受けとめるべし」という私のイメージについて、少し説明をしておきたいと思います。

例えば、ご主人様が奴隷にうんこを食べさせる場合、紀子さんのような「崇拝する女性の体から出てくるものをいただくのだから、奴隷としては最高の悦びのはずであり、それはご褒美以外にはあり得ない」というお考えはよくわかります。(悦びを授受する=Yタイプ)

しかし、それとは違うお考えをもった支配的女性も現実にいます。例えば、以前にも書きましたが、私が短い期間お仕えした女性は、「私はお前が苦しむのを見るのが楽しいの」とおっしゃったことがあります。言い換えると「お前を悦ばすようなことはやっても面白くない」ということであり、それは「私がお前に与えるのは罰=苦痛だけ」という考えにつながります。(苦痛を授受する=Kタイプ)

もちろん、Kタイプの女性には愛や優しさがない、ということには全然なりません。大きく見れば、それはその方なりの愛情表現であるのです。「奴隷の悦びを全て奪う」ことが、彼女の悦びであり愛の形なのです。彼女は「私に全ての悦びを奪われてもなお私から離れようとはしない」という奴隷の態度のうちに、支配する悦びを感じています。奴隷もまた、そうした彼女の愛を反転する形での愛を感じています。二人はこのレベルで深く結びついています。これもまた、まぎれもなく愛の一形態にほかなりません。

さて、今は主人を持たない野良マゾヒストである私は、どちらの考えに与したら良いのでしょうか?

答えは無論、どちらでもありません。マゾヒストが事前に、自身の主人としてYタイプかKタイプかを選択できるケースは、まずないからです。まず何らかの出会いがあって、ある女性を崇拝するに至った。どちらのタイプかはそれから後に判明することなのです。

ですから、野良マゾとしての私は、実際にそういうご主人様が現れるまでは、どちらも選ぶことはできないのです。見方を変えると、今の段階では、どちらにも対応できるような形でしか、奴隷観を形作ることはできません。

余談ですが、万が一、どちらかのタイプのご主人様を選べるとしたら、私はたぶん紀子さんのようなYタイプの方を選ぶと思います。Yタイプの女性にお仕えすると、もともと持っていたマゾ的ファンタジーを(結果的に)肯定してくれることになりますし、常に“悦び”をもってお仕えすることになるからです。

慌ててつけ加えますが、Kタイプの女性にお仕えすることの中にも悦びはあります。ただそれは、苦痛の向こうにある悦びなのです。全ての悦びを奪われることによるワンステージ深いところにある悦び。

Yタイプの女性にお仕えする奴隷は、苦痛を悦びに変換しています。食便を例にとるなら、うんこを食べるという苦痛を(女性に対する崇拝心を梃子に)悦びに変換しているわけです。この場合、苦痛と悦びとは同じステージにあることになります。そして、ひとたび変換に成功すれば、残るのは悦びだけです。

これに対して、Kタイプの女性にお仕えする奴隷の場合は、苦痛を苦痛として受けとめつつ、その奥に悦びを感じているのです。この場合、苦痛と悦びは違うステージに存在しています。苦痛のひとつメタレベルに悦びのステージがあることになります。

支配する女性の側でも事情は同じで、Yタイプの女性とKタイプの女性とは、悦びをどのステージに見出すかという違いに由来すると言えるかもしれません。

結論としては、今の私にはお仕えする女性がいないわけですから、態度を決めようがありません。「ご褒美として与えて下さるならばご褒美として、罰として与えてくださるなら苦痛として受けとめる」という以外に言いようがないのです。

一人の女性にお仕えすることになった場合、時によってその方から「罰よ」と言われたり「ご褒美よ」と言われたりすることもあるでしょう。その場合も同じことです。罰だと言われたら罰として(苦痛として)、ご褒美だと言われたらご褒美として(悦びとして)受けとめることになります。なぜなら、ご主人様が全てですから。

ところで、このような私の考えに一つ疑問をお持ちの方がいらっしゃるのではないでしょうか。

「同じことをされて、そんなに簡単に苦痛になったり、悦びになったりするものか。それは単に苦しがったり嬉しがったりして見せているだけではないか?」と。

そうではない、ということを述べるのが、後半のテーマです。

そういうメンタリティというのは、あり得るし、実際にあるのです。つまり、ご褒美だと言われたら、本当に心の底から悦びをもって受け止め、罰だと言われたら、同様に心の底から苦痛として受けとめる、というメンタリティが。

これは、ジョージ・オーウェルの世界的なディストピア小説『一九八四年』で提出されている考えです。「二重思考(ダブルシンク)」と名づけられたこの心理技術は、ひとことで言えばこういうことです。

白を黒だと信じること。同時に、白を黒だと信じたことを忘れること。

『一九八四年』は、独裁的な権力が人々を徹底的に支配管理する社会を、卓抜なリアリティをもって綴った近未来小説で、「二重思考」はそのための技術としてここでは否定的に扱われています。

けれども、自発的な主従関係の中で、奴隷が自らの心の中にこうした心理機構をつくり出すことには、何の問題もないはずです。

実は一般的に権力によって支配される側の心理には、多かれ少なかれ二重思考的な心理が働いているのではないかと私は思います。被支配という状況の中に置かれると、自然とこうしたメンタリティが形作られていくのだと思うのです。

実際私が女性にお仕えしていたとき、ある程度こういう心理状態になりました。ご主人様が黒だとおっしゃれば、かなりの程度それを本当に黒だと思うようになりました。ご主人様の言葉を全く疑うことができなくなり、ご主人様の言葉は全て真実であると思うようになるのです。

例えば、些細なミスをして「捨てる」と言われたとき、客観的にみればそんなことで関係が解消されるはずはないとわかることでも、言葉を額面通りに受けとめる結果、本当に捨てられるのではないかと、心の底から悲しくなり、心配になるのです。

本当は捨てられるはずはないのに捨てられると信じてしまう。同時に、そのように信じたことを忘れてしまう。

つまり、「白を黒だと信じること。同時に、白を黒だと信じたことを忘れること」という心理機構そのものです。一種の催眠ないし自己暗示なのでしょうね。

以前に、ご主人様にお仕えすると感情が豊かになる、感情の起伏が大きくなると書いたことがあったと思います。奴隷になるとご主人様の一言で一喜一憂する、それも喜ぶときには世界中の幸せが自分のものになったかのように喜び、憂えるときには自殺しかねないほど落ち込むのです。いま述べたことでもう明らかなように、このことも二重思考とかかわっているんですね。

このように二重思考は、奴隷のメンタリティには多かれ少なかれあるもので、これにより「ご褒美と言われれば悦びとして、罰と言われれば苦痛として受けとめること」は十分に可能なことだと考えます。そして、こうした心理機構は、崇拝する女性に心からお仕えすることで、自然と形作られていくものだと思います。

   ◇ ◇ ◇

以前の記事で、マゾヒストについてBタイプという言葉を使ったことがあるのを思い出しました。そこで、無用な混同を避けるために、悦びを授受する=Yタイプ、苦痛を授受する=Kタイプと書き直させていただきました。(13.1.6追記)
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