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現実の向こうに
「殺せかし! 殺せかし!」で、鞭を振って自分を殺して欲しいと謳い上げている女性は、いったい誰なのか。妻なのか、妻ではない誰かなのか、特定のモデルはないのか・・・。

うっかり見落としていたのですが、「殺せかし! 殺せかし!」を収めている詩集『氷島』には、「詩篇小解」という作者自身による短い解説がついていて、そこにはこう書かれています。

>恋愛詩四篇 「遊園地にて」「殺せかし! 殺せかし!」「地下鉄道にて」「昨日にまさる恋しさの」等凡て昭和五−七年の作。今は既に破き捨てたる、日記の果敢なきエピソードなり。我れの如き極地の人、氷島の上に独り住み居て、そもそも何の愛恋ぞや。過去は恥多く悔多し。これもまた北極の長夜に見たる、侘しき極光(おーろら)の幻燈なるべし。

「殺せかし! 殺せかし!」は、昭和5〜7年の作であり、「今は既に破き捨てたる、日記の果敢なきエピソード」であると述べています。

朔太郎が妻・稲子と離婚したのは昭和4年ですから、この詩は離婚後に書かれたことになります。

ところが、詩は過去の日記に基づいて書かれたとありますから、その日記がいつ書かれたのかは、なかなか微妙な問題になってきます。離婚の前後に朔太郎は、大量のノートや作品を室生犀星宅で焼却しています。

朔太郎が稲子と結婚したのは大正8年です。つまり、結婚生活は役10年間続いた。

ややこしいので時間を追って整理してみます。

大正8年(1919) 稲子と結婚。
昭和4年(1929) 稲子と離婚。大量のノート等を焼却。
昭和5〜7年(1930〜1932) 「殺せかし! 殺せかし!」創作。
昭和9年(1934) 詩集『氷島』出版。

離婚と同時に焼却した中に、「殺せかし! 殺せかし!」の元になった日記も含まれていたとすると、断定はできないものの、それが書かれたのは、その前10年間におよぶ婚姻期間中である可能性が高いと言うことができましょう。

いま手元にある資料をもとにした一応の結論はこうなります。

「殺せかし! 殺せかし!」は、婚姻期間中に書かれた日記をもとに、離婚後に書かれた可能性が高い。

ここから先は、読む方の想像力の問題になります。

一言でいうと、いろいろな読み方が可能だ、ということです。

元になった日記が婚姻期間中に書かれたとしても、新婚時代の甘い雰囲気の中で書かれたのと、離婚間際の険悪な雰囲気の中で書かれたのとでは、意味が違ってくるでしょう。

甘い雰囲気の中で日記が書かれ、それが試作品にストレートに反映されているとするなら、詩が謳い上げているのは妻であり、すなわち妻への愛を強調しようとするあまりにマゾヒスティックな物言いになったのだ、と言えるでしょう。

険悪な雰囲気の中で日記が書かれたとすると、妻ではない別の女性をモデルにしたということも考えられます。この場合、作者の心象風景の中で、現実の妻とは対称的な存在として詩の中の「君」が措定されていることになります。

あるいは、現実の妻から逃れるために、特定のモデルはなく理想の女性像を仮託した、ということも考えられます。

もっとスリリングな読みは、険悪な雰囲気の中で書かれたにもかかわらず、妻をモデルにしているという解釈です。現実としては、かつて愛していたけれど、今は妻を憎み軽蔑している。そういう状況の中で、「かつての君は美しく崇高だった」と言おうとしているのでしょうか。それとも、妻を憎んでいる、その憎しみが、朔太郎の心のどこかで反転して、憎むがゆえに崇拝しているのでしょうか。

この最後の解釈が、一番マゾヒスティックといえばマゾヒスティックですね。しばらく前に「言葉の行方」というエントリーで書いたこととも、少しつながります。

要するに、現実の朔太郎の生活と重ね合わせながらこの詩を読んでみると、いろんな読み方が可能になって面白いという、ただそれだけのことです。
許してあげるわ
ちょっとマジメなお話をします。いえ、ほかの記事がマジメでないということではないのですが。

某国独裁者の料理人であった日本人が、独裁者の息子である現独裁者に呼ばれて、その国に行って来た、というニュースがありました。

料理人は、かつて現独裁者が少年だったときに会っている。料理人が日本に戻るときには「戻って来いよ」と言い、料理人はうなずいたという。今回の訪問はその約束を果たしたものであった。

しかし、状況は大きく変わっていた。当時は子どもだったが、今は国家を手中に収める独裁者である。料理人を生かすも殺すも独裁者の気持ちひとつという状況だ。一方、料理人は「日本へ買い出しに行く」という名目で帰国し、そのまま某国に戻らなかったのだから、某国から「裏切り者」と思われても仕方がない状況だ。

はたして独裁者は、料理人を温かく迎えた。はるかに年下であろう現独裁者と顔を合わせた瞬間、料理人は滂沱の涙を流していた。会食の間中、ずっと泣いていたという。

さてここで、料理人が流した涙について考えてみたいと思います。

料理人の涙は、友情の涙でもなければ、懐かしさの涙でもありません。そういうものが少しもなかったかというとそれはわかりませんが、あってもほんのわずかなものでしょう。

大の男に滂沱の涙を流させたものは、「命が助かった」「許された」という安心の涙であったはずです。現独裁者の優しい笑顔を見たとき、料理人は初めてそのことを確信し、「殺されるかもしれない」という極度の緊張から解放されて涙を流したのでした。

この涙は、マゾヒストが流す涙と似ていると私は思います。

通常マゾヒストは、国家権力を背景にして命を脅かされるという状況にはないので、スケールは違いますが、いわば質としては同じものだと言ってよいと思うのです。

女主人は奴隷の生殺与奪の権を握っています。実際には奴隷を殺すことはできませんが、主人と奴隷の間では一種の約束事としてそうした関係が成立しています。あるいは、「捨てる」ということが「殺す」と同等のものとして仮定されています。

そういう状況でなにか失敗をすると、奴隷生命の危機が訪れます。奴隷は詫びるなり罰を受けるなりして、やっとのことで許されます。許された奴隷は、涙を流します。「紀子様のお言葉」で、紀子さんに許されて大沼さんが流した涙は、まさにそういうものです。

許された喜びというのは、とても大きいものです。許されることは、自分の存在を認められたことであり、生きることの喜びそのものと直結します。

料理人の場合には、そこに性的な意味合いはないでしょうから、その点は違いますが、しかし涙の本質ということからいえば、料理人とマゾヒストは実は同じ涙を流していると言えるのです。

アナル舐め 本文とは関係ありません
女王様にとって煙草は一つのシンボルになっているようです。
足を組んで煙草を吸いながら奴隷を見おろしている姿は、いかにも“女王様”らしい一幅の絵です。

けれども、ここで私、思いきって告白しちゃいます。
私、煙草が苦手です。

煙草を吸う女性は、それだけで私の性的な憧れの対象からはずれてしまいます。
もちろんお友達としてなら関係ありません・・・それでもマナーの悪い喫煙者は嫌ですけど。
これは男女問わず。

奴隷のくせに生意気だと言われても、こればかりは仕方がないのです。
「何でお前はマゾなんだ」と言われても仕方がないのと同じように、これは私の生理なんです。
私にとって煙草は「ケガレ」に近い感触です。

このことは、なにかマゾヒストとして言ってはいけないことのような気がしていましたが、どうも煙草に対する世の中の認識が変わりつつある今、Femdom 的世界においても地殻変動(大袈裟ですが)が起きているように思えるフシがあります。

試みに有名SMクラブに所属している女王様の喫煙率を調べてみました。
登録数が多くて、サイトに喫煙の有無のデータが出ている、というのでMARSを選びました。

まず、SMクラブのサイトに喫煙の有無のデータが記載されていること自体が、時代の変化を物語っています。
女王様の喫煙に対するお客の関心が高まっていることの反映と考えられるからです。

もっとも、同じ系列店でもPERVSのサイトには記載がありません。
単にデザイン上の都合で項目を入れたり入れなかったりしているのかもしれず、まだまだ最重要のポイントではない、ということでもありましょう。

結果は次の通りでした。

 総人数  32
 喫煙者  13 40.6%
 非喫煙者 18 56.3%
 記載無   1  3.1%

なんと非喫煙者の方が多いのです。
記載なしの一人を喫煙者として計算しても、喫煙者は43.8%に過ぎません。
この結果は私も意外でした。

女王様の喫煙が苦手で、非喫煙者の女王様を探そうとすると選択肢が限られる・・・という理由でクラブへ行かないという人は、潜在的にはかなりいるのではないかと思われますが、こうしてみると選択肢は意外とありそうですね。

今後は嫌煙的女王様は増えるでしょうし、嫌煙的マゾヒストも少しずつ目に見えるようになってくるような予感がします。

個人の好き嫌いですから、良し悪しとか正しい正しくないの問題ではないのですが、そろそろ「煙草は女王様のシンボル」というイメージは変わってもいいのではないかと思います。

奴隷は快楽の道具
さてそこで、私が思うのは、支配的女性の快楽についてです。

私がお仕えしたご主人様は、性器の快楽をお持ちでしたが、感じているところを奴隷に見せたくないと思っていらっしゃるようでした。

性器の快楽は、どうしても「ああん」というような喘ぎ声に象徴される、いわゆる女っぽい、弱いイメージと結びつきがちだからでしょうか。

どうも同じように考えてらっしゃる支配的女性は多いように思われます。
奴隷には強い部分だけを見せて、「ああん」の部分は見せたくないと。

もっとも、奴隷を支配すること自体が性的快感であるという方もいらっしゃることでしょう。
性器による快感はほとんどないか、あってもごくわずかという方。
そもそも「ああん」欲求を内に持たないわけですから、問題はありません。

ですが、たぶん多くの支配的女性は、支配的快楽と性器的快楽とを分裂してもっている。
その際、両者をどのようにしてバランスをとっているのか、とても興味があります。

結論ははっきりしています。
人それぞれ、ということです。
けれど、個々の支配的女性がどうお考えになっているのか、うかがってみたいのです。

感じている姿は奴隷には見せない、たとえば奴隷とは別に恋人がいて、性器的快楽はそちらで解消しているという方もあるでしょう。
あるいは、性器的快楽も隠さないという方もいらっしゃるでしょう。
奴隷にご奉仕させている方はこういうタイプですね。

私のご主人様は、その間ぐらいのスタンスだったということになります。

奴隷としては「ご主人様に従う」しかないのですが、フリーとしての視点から私の感想を言わせていただくなら、女性は遠慮しないで快楽の道具としてどんどん奴隷を使えばよいと思います。

「ああん」という表情が支配者らしいイメージではない、というのは一応理解できますが、でもそれは既成概念に囚われすぎているようにも思えます。
イメージというのは、ちょっと視点をずらすだけで簡単に変わってしまうものです。
普通のセックスでさえ、それを「挿入」と言うから、入れる側が攻めで入れられる側が守りと捉えられてしまいますが、例えば「捕捉」とか「捕食」などと呼んでしまえば、たちどころに攻守逆転します。

もちろん主従関係はきちんと区別しておかなければなりませんから、奴隷からご奉仕を要求するなんてもってのほかです。
それは大前提です。

私の経験からしても、ご主人様の快楽の表情に接することは、崇拝心が増しこそすれ小さくなることは決してありません。
ご主人様の神聖な時間に立ち会えたという幸福感は、ますます主従の絆を強くするように思います。

女性の快楽の道具に
私が以前にお仕えした女性は、奴隷に採用する前の段階で「私は奴隷にクンニはさせない」とおっしゃっていました。
どうも奴隷立候補者の中に「舐めさせてください」という人が多かったようです。
「舐めさせてください」というのは奴隷の欲求であって、「なんで私が奴隷の快楽のために何かしなきゃいけないの」というのが、ご主人様の言い分でした。

私はそのときにはすっかり魂を奪われていましたので、ご主人様がお望みでないことは一切しないつもりでおりました。
奴隷として採用されてからも、「舐めさせてください」は自分の中の禁句にしていました。

実際にお仕えするようになってわかったことがあります。
ご主人様は真性の支配的女性でしたが、支配欲とは別に、というか支配欲と連動して、ふつうの女性としての性的欲求もお持ちの方でした。
端的にいえば、性器の快楽ですね。

連動してというのは、ご主人様は鞭がお好きで、鞭を使っていると濡れてくるんです。
私を鞭で打っていると、だんだん感じてきて「ああん」って感じになってきます。
私に馬乗りになってなおも鞭を振るうのですが、そのときはもう鞭に力は入っていない状態です。
私の背中はびしょびしょです。

するとご主人様は、馬から下りて、私の前に仁王立ちになります。
私の髪の毛をつかみ、性器に近づけるようにして、

「どうしたいの?」

とおっしゃいます。
私ははじめ何のことかわかりませんでした。
そのうち、「舐めろ」ということかな、と気づきましたが、「舐めさせてください」は禁句になっています。

「どうしたいのよ?」

とくり返し訊かれて、私は思いきって、

「あ、あの、できれば、な、舐めさせてください」

と申し上げました。
罰を受けてもかまわないという気持ちでした。

「奴隷には舐めさせないけど、今日は特別よ。お舐め!」

ご主人様はご主人様なりに言い訳をされて(^_^;)、ご命令が下りました。
ベッドに仰向けになって、股間に私の顔を引っ張り込みます。

蒸れた良い香り(本当に良い香りでした!)を味わう余裕もなく、舐め始める段階でもう半分ぐらい達してらっしゃるので、いきなりのフルスロットルです。
ひたすら強く、早く、激しく。
舌で舐めているのか顔全体で舐めているのかわからないほどの激しさで、とにかく無我夢中でお舐めします。

やがてお達しになると、私を乱暴にベッドの下に蹴り落とします。
ご主人様はしばらくの間、ベッドの上で余韻を味わっていらっしゃいます。
私は顔をぬらしたまま、じっと床で土下座しています。

ああ、このときの法悦感。
止まってしまったような時間。
今思い出しても胸が切なくなります。

ご主人様の快楽の道具になれたという満足感。
快楽の道具に私を使ってくださったという誇らしい感じ。
ご主人様への感謝の気持ち。

いろいろな思いが混然と私の胸を満たし、私はなお一層ご主人様が好きになりました。
いえ、好きという言葉は禁じられていたので、言い直します。
私はますますご主人様をお慕いするようになりました。

ここまでは私の体験談です。
このことについていささか考えるところがありますので、次回に続きます。

あなたのお言葉は絶対です
前の話の続きです。

奴隷はご主人様のお言葉を100%正面から受け止める結果、
ご主人様の前ではすっかり無垢な存在になってしまいます。
奴隷は疑うことを知りません。

ご主人様の前で奴隷の感情が豊かになるのは、
この疑うことを知らない無垢さから来ているのだと思います。

ですから、女性が奴隷を騙すのは簡単です。
どんな嘘でもそのまま信じますから。

「お前、今日はよく働いたわね。
ご褒美にキスしてあげるわ」

と言われれば、本当に涙を流して感激するでしょう。

「それじゃ、顔をこっちに向けて。目をつぶって・・・」
「(うっとりと)はい・・・」
バッシーン!(思い切りビンタ)
「バカね。私が奴隷とキスなんかするわけないでしょう!
お前はそんなこともわからないの?」

言われてみればその通りです。
自分のバカさ加減が情けなくなります。
奴隷は恐怖に震えます。

この恐怖も本物です。
怖がって見せているのではありません。
ご主人様のお怒りのお言葉を100%受け止めるからです。

本当は女性は気楽に奴隷をからかっているだけなのです。
でも奴隷はそれに気づきません。
原理的に気づくことができないのです。
女性の上げたり下げたりするたった一つの言葉が何十倍にも拡大されて、
奴隷は天にも昇る喜びから地の底の恐怖までを味わいます。
近江なみさま センタービレッジより
ご主人様にお仕えしていると感情の起伏が豊かになる、
ということを、たぶんここで何度か書いていると思います。

その理由にふと気づきました。

奴隷はご主人様のお言葉を、100%そのまま正面から受け止めているんです。
たぶん私だけでないと思います。

「なにか裏があるのでは?」とか「社交辞令みたいなものでは?」などと
考えたりはしないんですね。

「お前、ご奉仕がなかなかうまくなったわ」と言われれば、
天にも昇る気持ちで喜びますし、
「最近、たるんでるんじゃないの?」と言われれば、
深く落ち込み、反省します。

何か小さな失敗をして「私の奴隷をやめてもいいのよ」と言われれば、
「こんな些細な失敗で捨てられることはないはず」と思うのは後のこと、
その時は捨てられる恐怖で頭がいっぱいになってしまいます。

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