無料
エロ
動画
最後はKさんの場合です。

Kさん:拷問や四肢切断、内臓取り出しに対して強い執着を持っている。

悩みを相談された kazowk さんが当惑しているのと同じように、私も当惑しています。

Kさんは深く苦悩する一方で、実現したいという強い欲求ももっています。
かなり強い葛藤の中にあることが見て取れます。

kazowk はKさんから「病気ですよね?」と言われて、穏やかに回答を回避しています。
私は、願望を実現したいという欲求が押さえきれなくなりそうなほど強いのであれば、敢えて「病気である」と認識するところから出発する方がよいのではないかと思います。

前に触れた松井冬子さんの作品をKさんが見たらどう感じるだろうかと、ふと思いました。
松井さんも内臓が飛び出した題材の絵を描いています。

松井さんの作品は、自身の“痛み”の投影でした。
Kさんの場合はどうなのか?
もしかするとKさんが松井さんの絵を見たときに、何か感じるものがあるのではないだろうか…。

全く見当はずれかもしれません。

私は「内臓が見たい」という願望は、境界性への憧憬ではないかと思います。
ここで境界というのは、生死の境界です。
内臓が見える状況は、生死の境界にあることを示しています。
人間は、死に隣接することで、逆説的に生を実感するということがあるのですね。
リストカットなどはその例です。

Kさんは生死の境界を目撃することで、生を実感したいのではないか。
ただ、境界を体現する者が自分ではなく他者であることが、リストカットなどとの違いです。

Kさんの願望を、femdom の範疇で捉えることができるでしょうか?
ポイントは、Kさんのファンタジーの中で、相手としての“人”が不可欠な要素になっているかどうかです。
境界的な状況を、相手と自分とで共有しようという意図があるのかどうか。
もしあるとしたら、ぎりぎりで femdom という範疇に入れてもいいと思います。

ですが、おそらくもっと可能性が高いのは、拷問したい、四肢切断したい、内臓が見たいという願望そのものが目的化しているケースでしょう。
状況を「相手と共有する」という要素が抜け落ちて、ただ「内臓が見たい」ということのみに固執していることが考えられます。
この場合は、Bさんのケースと同様、完全に一方的な願望で、femdom 範疇に入れることはできません。
社会的な危険性もとても大きいと思います。

例えば、何かのきっかけで人の内臓に興味を持ったとします。
普通は「恐い」とか「気持ち悪い」と一過性の興味で終わりますが、ひょんなことからそこに想像力が定着し、展開してしまうことがあります。
「どんな感触なんだろう?」
「どんな匂いなんだろう?」
「内臓が飛び出したらどんな風に苦しむのだろう?」
などという具合に、想像力が自己増殖していくと、やがてそのイメージから逃れられなくなって、「内臓が見たい」という願望が目的化してしまうのです。
広い意味でフェティシズムといってもいいかもしれません。
内臓を見ることが目的なのですから、相手不在、人間不在、かつ、一方的な願望です。

人間の心というのは、一度ある種の隘路(あいろ)に入り込んでしまうと、なかなか抜け出せなくなるものです。

佐川一政さんの「パリ人肉事件」を覚えている人も多いでしょう。
佐川さんの本やインタビューを読むと、あの事件は、彼がそういう心の隘路に入り込んで引き起こされたことがよくわかります。
例えば、「内なる辺境の人々×佐川一政」

ひょんなことから始まった「人の肉を食べたい」という思いが、長い時間彼の中に留まりつづけることによって、自己増殖し、やがては強い執着となっていきました。
私ははじめ、女性に対する強い一体化願望(つまり愛)が引き起こしたのではないかと考えていたのですが、そうではなく、もともと「人の肉を食べたい」という強い執着があったのですね。
女性とのいきさつは、一つのきっかけだったに過ぎないようです。
「いつか実行しなければならない」という思いに取り憑かれていた彼は、あるとき「今でしょ」と思ってしまったんですね。

Kさんの場合も、一種の心の隘路に入り込んでしまっているように思われます。
その悩みがとても深いことは想像するに余りありますが、ここはやはり、一人で抱え込まずに、専門医なりカウンセラーなりに相談するのがよいと思います。
相談することで悩みを共有してもらうことができます。
即解決にはならないかもしれませんが、心の負担はかなり減りますし、少なくとも最終的な引き金の抑制にはなるでしょう。

慎重に代償行為を探すということも考えられるでしょうか…。
うーん。
犬や猫を代わりにするのはNGです。
動物愛護団体に糾弾されるから、というだけでなく、どうも小動物への代償行為は、本体である人への願望を昂進させてしまうようです。
だからこれは危険です。

代償行為として私の脳裏に唯一思い浮かぶのは、かなり大胆な意見ですが、医師になること、です。
そこには医療という厳然たる国家制度がありますから、その枠内にきちんと収まりつつ、外科医や内科の執刀医として活動するわけです。
そんな医師に手術されるのは恐い?
いいえ、そんなことはありません。
そういう人の方が名執刀医になる可能性が高いと思います。

でもまあ、誰でもが簡単に医師になれるわけではありませんので、一般的な解決法にはなりませんね。

以上縷々述べてきましたが、いうまでもなく私はその筋の専門家でもなんでもありません。
ただ、マゾヒストとしての勝手な感想を述べたに過ぎません。
例えば「ほんとに外科医になっちゃったけど、どうしてくれるのよ」と言われても、責任とれませんので、どうぞ自己責任でお読みいただければ幸いです。
少しでも考えるヒントになれば嬉しい、というぐらいのものです。
私自身も迷いながら綴りましたので、間違っていることもたくさんあると思います。
ご批判・ご叱正は素直に聞く耳を持っていますので、お気づきの点はご指摘ください。

次はBさんの場合。

Bさん:幼少期から、男は汚いものとの固定観念があり、徹底的に汚したいという願望を持っている。

Bさんのケースと、それからKさんのケースも、私はマゾヒストとして共感することができないので、想像力を働かせて何かを言うことができません。

ただ、Bさんの願望は、femdom(女性支配)ということとは全く違うものでしょうね。
(サディズムという言葉は、文脈によってかなり広い範囲のことを指すので、混乱の元になりかねません。ですからここは、女性支配という言葉で考えた方がよいと思います。)

ここには「愛する」「一体化する」という要素がありません。
言葉を受けとめる限り、ただ一方的に「汚したい」と思っているだけのようです。

したがって、マゾヒスト諸氏がBさんに近づいていくのは危険だと思います。

逆にいえば、Bさんが自身の願望を満たす可能性は現実問題として極めて小さい。
Bさんの悩みはそれだけ深いとも言えます。

やはりここは、専門医やカウンセラーに相談するなどして、「男は汚れたもの」というコンプレックス(執着)そのものを解消していく方向に歩き出すのがよいのではないでしょうか。

Bさんのコンプレックスがどこから来ているのか、もちろん私にはわかりません。
ことによると幼少期の何らかの体験が原因かも……などと、ちょっと想像力を刺激されますが、それは文学とか漫画(『サイコドクター』!)の話ですね。

強迫神経症の中に不潔恐怖というのがありますが、その一種かなとも思います。
あくまでも素人考えですが。

それで気になるのは、作家で精神科医のなだいなだがエッセイで、不潔恐怖がナチスの残虐な行為を支えていたのではないか、と書いていることです(「きれい好きな殺人者の手」〜『人間、この非人間的なもの』所収 ←この本はお薦めです)。

もちろん不潔恐怖をもった人がすべて殺人者になるわけではありませんが、「他人は汚れている」という認識が、「自分とは違う存在なのだ」→「人間ではない」という具合に連鎖していき、極端な場合にはホロコーストを引き起こす、ということはあり得るのではないかと思います。

Bさんがそうだ、と言っているわけではもちろんありません。
ただ、Bさんの投稿の中に自省的な言葉がないことが、ほんの少し気になります。
もっともマゾサイトへの投稿だったので、偽悪的に書いただけかもしれませんけれど。
さて、Aさんの場合。

Aさん:気に入った男を一生自分の手元に捕らえておきたい。また、その男を「食べたい」という願望を持っている。

私はAさんのケースは、お三方の中で唯一、私たちが言うところの femdom(女性支配)の範疇に入るのではないかと思いました。

Aさんの願望には、「男を支配したい」という中心があります。支配する方法として、手元に捕らえておく、とか、食べる、ということが選ばれているわけです。

実は私の幼少期にも、Aさんの願望と対になるような願望がはっきりとありました。
つまり、好きな女性に捕まって、最後には食べられたいという願望がです。

私の場合、きっかけは「ヘンゼルとグレーテル」だったと思います。
周知のように、お菓子の家に迷い込んだヘンゼルを、魔女が太らせて食べようとする場面があります。
この物語に初めて接したときの異様な興奮を今でも覚えています。
この話をもとに、食べられたいという願望を「ヘンゼル願望」と名づけたい気がします(もうとっくに名前がついてるかな?)。

他方、「食べてしまいたいほど可愛い」という言葉もあるように、「愛する」ことと「食べる」こととは、実は近い関係にあるのではないかと思います。
比喩的な近似性といってもいいかもしれません。

敢えてこういう言い方をしてみましょうか。
「愛する」こととは「一体になりたい」ことにほかなりません。
とするなら、「食べたい/食べられたい」という願望は、“アミノ酸レベル”で一体になりたいという願望であると。
生殖器官ではなく“消化器官”を通しての一体化願望だという言い方もできるでしょうか。
そこにいわゆる倒錯があることは間違いありませんが、基本はあくまでも「一体化願望」であり、一体化願望自体は極めてノーマルな願望です。

私には、Aさんの願望の、さきほどとは違う角度から対になるような、もう一つ別の願望があります。
ご存知のように食糞願望です。
Aさんは愛する人の肉体を食べたいと願っている。
私は愛する人の排泄物を食べたいと願っているわけです。
そこでは、肉体や排泄物は、愛する人の分身として受けとめられています。

このように、私は二つの角度からAさんの願望に共感することができます。
どちらにしても形は違えど一体化願望であることに変わりありません。

それだけに、私はAさんのケースに想像力を働かせることができると思っています。
私の想像によれば、Aさんが自身の願望を自制することは、比較的容易ではないでしょうか。
その意味で社会的な危険性はあまり感じません。
例えば佐川一政氏のような事件に発展する可能性は、あまり無いように思います。

私が一番いいと思うのは、対になるような願望をもったマゾヒストを見つけて、よく話しあった上で、二人でイメージプレイをすることです。

「今日はこれからお前を食べちゃうぞ」
「ああーん、恐い、恐いよ〜。で、でも・・・」
「でも? でもなに?」
「A様に食べられるなら本望です〜」
「そうか、では、食べるぞ。ガブッ(と噛む)」
「あ〜、食べられちゃう〜」

というような(^_^;)。

まあ、男の体に歯形がつくぐらいなら良しとしましょう。

要するに、食べるというイメージを介して一体化願望がある程度満たされればいいのだと思います。

問題は、対になる願望をもったマゾヒストがいるのかどうかですが、これは少なくないと思います。
被監禁願望も、被食願望も、マゾヒストの中に割合よく見られるものだからです。

Aさんがそういうマゾヒストを見つけて、その人と人間として愛し合うことができるならば(実はここが肝腎ですが)、一生の幸福は保証されたようなものです。
ビアズリー「サロメ」
『マゾヒストの喜び』内のコンテンツ「マゾヒストのつぶやき」に、気になっている記事が二つほどあります。

一つは2013年7月29日付の「S女性様からのメッセージ」と題する記事。
そこには二人の「S女性様」からのメッセージが掲載されています。その内容は次のようなものです。

Aさん:気に入った男を一生自分の手元に捕らえておきたい。また、その男を「食べたい」という願望を持っている。

Bさん:幼少期から、男は汚いものとの固定観念があり、徹底的に汚したいという願望を持っている。

もう一つは2013年5月17日付の「Femdom 質問箱 真性Sとサディズム」と題する記事。
ここには上記お二人とはまた違う女性の願望が紹介されています。

Kさん:拷問や四肢切断、内臓取り出しに対して強い執着を持っている。

彼女たちの願望はいずれもショッキングなものです。
これらを読んで私はある種の当惑を覚えました。
これらの願望を、いったいどう考えたらいいのだろう、どう受けとめたらいいのだろう?

私の当惑を、簡単に解きほぐすことはできませんが、とりあえず「このことは確かに言えるのではないか」ということを一つずつ持ち寄ってみたらどうか、と思いました。

そこで、以下箇条書き風に。

(1)まず言えることは、Aさん・Bさん・Kさんのケースをいっしょくたに考えることは乱暴だということです。

お三方をすべて「S女性」というキーワードでくくろうとすると、本質を見失うか、行き詰まるように思います。

とはいえ、共通するところもあります。

(2)お三方それぞれが抱えた悩みは極めて深いということです。

私たちは、彼女たちが抱える深い心の闇を、簡単に切り捨ててしまうのではなく、そこに寄り添っていこうとすることが必要なのではないかと思っています。

なぜかって?

同じ人間だからです。

(3)彼女たちの願望自体を否定することはできません。

それは「事実」として存在するものだから。
マゾヒズムが私の中に厳としてあるのと同じことです。

もちろんこのことは、彼女たちの願望をそのまま全面的に肯定する、あるいは、称揚する、ということではありません。

(4)彼女たちの願望が反社会的であることは認めなければなりません。

このことに目をつぶるわけにはいきません。

ただ、反社会的といっても、例えば私たちのマゾヒズムだっていくぶんか反社会的であることを忘れてはいけません。食糞なんかなおさらです。

その意味で、彼女たちの願望も私たちの願望と地続きのものとして受けとめなければならないと思います。

とはいえ、反社会性の程度が、私たちの願望と比べて著しく高いことも事実です。

(5)法(刑法)の立場からいうと、反社会的願望が心の内側にある限りは何の罪にもならない、しかし、それを実行してしまえば犯罪として罰せられることになります。

これはとても大事なことです。このことは常に意識しないといけない。

けれども、「内側に留めておけばよい」と唱えただけで一件落着となるのであれば、こんな簡単な話はないですね。
そうはならない、というのは、事が人間の心の問題だからです。

私の感想では、総論的に言えるのはこのぐらいで、あとはそれぞれ別個に見ていきたいと思います。
といっても大したことが言えるわけではありませんが。

つづく。

少し前に某市長の発言が問題になり、巷に「性奴隷」という言葉が氾濫しました。

で、以下は件の社会問題とは全く関係のない文脈でのタワゴトです。

性奴隷という言葉、いいですね〜。

男のロマンですね。
夢がありますね。

以上考察終わり。

性奴隷
「あなたの性奴隷にしていただいて、ぼ、ぼく、幸せです」
「何言ってるの? お前はただの奴隷よ」

思い出は心の中に
某画像掲示板が閉鎖されていて、そこに「某女王様から画像削除の依頼が来たので、いろいろ考えて掲示板を削除することにした」旨の断り書きがありました。

それを読んで少し考えることがありました。

閉鎖云々ということではなく、女王様からの削除依頼についてです。

その女王様はすでに引退しています。
かつては雑誌や倶楽部などで大変に活躍された方でした。
掲示板には雑誌に掲載された画像が貼られていたわけです。

投稿者はその方の美しさを讃美するために貼ったのでしょう。

そういう気持ちは私もよくわかります。
引退した人について語ることは、「私はあなたを忘れませんよ」というメッセージでもあると思うのです。
そのことによって、かつてお世話になった、あるいは、かつて憧れた人に対する、讃美とか感謝の気持ちを表すということだと思います。

しかし、当の女王様の気持ちになってみるとどうでしょうか?

現役を引退して、ごくあたりまえの幸せな結婚をしているのかもしれません。
結婚は一つの例に過ぎませんが、何らかの形でカタギの市民として生活をされているのでしょう。
もしそうだとしたら、女王様時代の自分をすっかり忘れてもらいたいと考えたとしても不思議ではありません。

それが「女王様」という広い意味での性産業に属する職業でなければ、まだいいのかもしれません。
例えば同じ人前に身をさらす職業でも「女優」とか「スポーツ選手」であれば、かなりニュアンスは異なってくるはずです。
悲しいことですが。

世間から忘れられたいと思っている元女王様の意志は、やはり尊重されるべきでしょうね。
いつまでも讃美していたい、思い出を語りたいファンとしては、さびしいことですが。

ただ問題は、引退した元女王様が実際にどう考えているのかは、外からはなかなかわからないということです。
引退した女王様については一切語るべきでない、という考えは、逆方向の勇み足というか、萎縮しすぎですね。
その辺がなかなか難しい。

かつて“液体系”を標榜していた女王様がいらして、ブログの文章などもとても面白く、私は遠くから憧れていました。
その方の引き際はとても見事でした。
倶楽部を引退し、ブログを閉鎖した後、見事にどこにも出ていません。
ビデオもほとんど出まわっていないのではないでしょうか。
個人的には全く存じ上げませんが、実はあることで一度、嬉しいメールをいただいたことがあって、私は今でもそのことに感謝しています。
しかし、ああいう一線の画し方を見ていると、「この方についてはこのまま忘れて差し上げるのがいいんだろうなあ」と思います。

忘却とは忘れ去ることなり。
(↑あたりまえのことね)

以前に「キンチョー虫コナーズ」のおばさまがセクシーだと書いて、約一名から絶賛(でしたよね)をいただきましたが、私は全然懲りてません。

サ○ーランドのテレビCM、たまりません。

いくつかのバージョンがあり、YouTube などで見ることができます。

こんなセクシーな女体を平然と公共の電波に乗せて、放送コードはいったいどうなっているのでしょうか?
いけないことだと思います。
青少年の健全な性的羞恥心をいたずらに刺激します。
こういう映像は18禁のDVDとしてジャムズかまぐろ物産から5,250円で出すべきです。

私は憤慨しています。

訴えてやる!

証拠保全のために YouTube の映像はブックマークしました。

ダイナマイトボデー
色っぽすぎます
close